◎神様との間に溝を作らないように精進が必要。いつも神様のおかげの中にあるのだということが分かることのために信心はある。信心三昧の境地。%V
%1村うちの人のおかげ参り
%2矢次さん宅祭のおかげ
%3虚無僧にたとえて
昭和四十三年二月十八日 朝の御理解
ひとりひそかに信心せよ、ひとりひそかに信心せよという事は雑音が入る。雑音が入ると神様と私達の間に聞き取りにくくなってくる。例えば神様と私共の間にひとつの静かな静かなこの雰囲気でお話合いをしておるとするなら、そこへ誰かが話をしたりしますと、雑音が入りますとそれが跡絶えるような、ひとりひそかに信心せよ。昨日ある方があるお話を、Z『私、お取次さして頂いてから頂きます事がウ冠に谷という字ね。美容院の容という字、ウ冠に谷という字を頂くんです。』
ウ冠のウというのは宇宙の宇、天地の親神様の意味だろうとこう思う。天地の親神様と私共との間に交流するもの、ね、それが交流しておったものが、神様と私共の間に溝が出来、いわば谷が出来、それではおかげにならん。ひとりひそかに信心しないからだと私は思った。ひとりひそかに信心するという事は、御祈念でもひとり静かにひとりでするという意味ではなくて、また何人も連れだってお参りして来るといった様な事が、ひとり信心するのではない。
ひとり信心するというのは、自分の心の中のものと神様の心とがこういつも繋がっておる様な信心という事である。ね。またその繋がっておるものを切るもの跡絶えてしまうもの、谷が出来る。それは油断を懸ければ心、自分の心の中に、いうならば仏教の言葉に精進という言葉があるです。ね。精進しておる時には神様と二人の間に、それこそ二人の中に密かな信心の中に交流するものがある。ところが精進を怠るとそこから谷が出来る、ね。
%1昨夜、夜の御祈念にもう遅うに村内のある方がお参りして見えました。お参りしておるとおかげがてんでおかげを頂きます。ところがお願いに来ると直ぐおかげを頂くんでけども、御無礼するとまた直ぐお願いせんならん様な事が起こって来る。ね。お参りという精進が出来ておると何かにつけておかげを受けるけれども、お参りを止めるとまたお願いせにゃん事がある。
%1身体の上にこうこうでございますから、どうぞおかげ頂く様にと言うてお願いに見えられる。これなんかは簡単に言う神様との間にお参りという精進によって、神様とこう繋がっていつもおかげを受けておるというものが交流する。そんなら参らん神に祟りなしという様な事を言う人がありますけれども、神様のおかげを頂いておるという実感。
%1何かにつけておかげを頂くという、そういう心がです。段々神様へ向かう本当の心が生まれて来ると同時に、そういう心が私は人間の幸福、本当の信心のお徳というものを身に付けていく事が出来る一番大事なものである。精進がなされなければ、精進を怠ると直ぐに神様との間に谷が出来る。何とはなしに神様とこう申し上げても空々しいものになる。
昨日、一昨日久留米の矢次さんの所の宅祭、前にもお話致しました様に、十六日のお祭り、あの大雪でございましたから、もう夜も遅くに十一時を過ぎましてから電話が掛かってまいりましてね、お祭りを一日、二日延ばして頂けないでしょうかという事であった。水道も出ないし、ガスも電気も止まってしまっておる。
これでは折角皆さんに来て頂いてもお参りに来て頂いても、ローソクの灯ででもお祭りを仕える様な事では出来んからというのが向こうの願いであった。それでももう前々から十六日は矢次の家の宅祭りだとお願いしてあるのですから、私はおかげ頂くと思ったから、「十六日でいいんですよ」と電話で直ぐ末永さんに返事をさせました。
それを向こうとしては、丁度夕方に回覧板が回ってまいりまして、ね、その二日間は電気も水道も止まるからという、その連絡があったんです。だからまあ電話を掛けて見えた訳ですけれども、それからもうあい間もしましてから、電気も点いた水道も出る様になった。おかげで十六日にお祭りが出けた。ね。あれが私が、例えば人間心を使こて、そうなあ、本当にこの大雪で電気も止まっとる雪の為に水道も出るまい。
そんなら二日、三日延ばそうかね、というて延ばしておって、電気が点いた水道がついたか、やっぱり十六日にしょうと言ったてですね、もうあの有難いお祭りの雰囲気というものはないですね。なぜって信心が、本当に神様のおかげで神様のおかげで出来ておるんだ。神様のおかげでお祭りを奉仕させて頂くんだという、私共の一年に一度の一生懸命の思いを十六日に結集して、そしてそれを神様に御礼を申し上げて頂こうというその日が、明日になったり明後日になったりする様な事で、私はまともなおかげの頂ける筈がない、形の上の事が抜けて、そうでしょうが、ね。
はあこれを親先生にお届けしてあったが、こうしてお願いしたけれども、おかげを頂いて神様の御都合ちゃあ恐れ入ってしまう。恐れ入ってしまうという心でお祭りを仕えるから、お祭りの雰囲気というかその盛り上がりというか有難いものが一杯のムードの中にお宅祭りを奉仕する事が出来るんです。
%2昨日御礼参拝を親子三人でしてまいりましてから、もう先生恐れ入りました、本当に有難いお祭りを頂きまして有難うございましたが、もうその後がですね、親先生もう遅う迄掛かりましてから跡じまいやら跡形ずけが終わってしまいましたら、もう跡じまいが終わったのと水道が止まったのが一緒でございました。もう本当に神様のお働きには恐れ入りますというて、昨日御礼に出てまいりました。素晴らしい事ですね。
%2神様のこういった働き、いわゆる神様と矢次さんの間に交流するものがあって、ね、神様とぴったりしたものがあって、成程自分達が仕えたお祭りじゃあなかったなあ、神様のおかげで奉仕させて頂いたんだなあ、跡のかたずけに至る迄神様のおかげを頂かなければ出来る事じゃあないんだなあという、有難い実感というものが改めてまた頂けた。
%Vだからそりゃあおかげ頂いたね、そりゃあおかげ頂いた、おかげ頂いたけども、その事がだけおかげじゃあないんだ。こういうお働きの中にいつもあるんだとこのお宅祭りを通して分からして頂くという事が有難いんだ。お取次を頂いてお願いをするという事は、そういう働きの中にそういうおかげの中に神様のおかげをいつもお働きを頂き、そういうおかげを頂いておるんだとそれを信じそれを分からして頂くという事の方が有難いのだ。
%Vお祭りの間、お願いしておったから電気も点いた水道も出た。お祭りが済んでしもうて跡じまいが済んでしもうたら、水道が同時の様に水道がいらなくなった。あの三井町一帯は今、水道が出ないそうです、修繕か何かあってるらしいんですね。そういう修繕があってるからもう二日間は使えないというて、ふれが回ったらしいんですけれども。
%Vどういう様な事の具合か、神様のどういう働きであったかは分からんに致しましても、電気が点いた水道が出た事は事実である。しかもその十六日に、ね。そういう例えば、神様と私共の間にそういうひとつの交流というかおかげの交流というか、そういうおかげの中におかげを実感させてもらわなければおられない程のおかげというのが、いつもかつもそうであらなければならないのです。
%Vでなからなければならないのに、神様と私共の間に谷が出来る谷間が出来るというのはどういう事なのか、どういう時にそういう谷間が出来るのか、お互いが、ね、不精進になった時なんだ。
昨日『善導寺の原さんだったでしょうか、御心眼頂いておる。魚釣りをしておる。ね。ところが、こう上がって来たものは女の髪が一杯上がって来た。釣竿に付いて来た。』まあ女の髪の毛というのは昔から不浄と言われておる。気持悪いですわね、あのこうやって髪の毛なんかがこうやって上がってくる、不浄という。ね。魚釣りという事はどういう事かというと釣三昧という様な事を申しますね、あの魚を釣るという事は、魚を釣るという事が目的の人もあれば、魚を釣る事自体が楽しいという人と二通りあるんですよね。
魚は釣れても釣れなくてもじっーとこう釣竿を水に垂らしてあの浮きをじっーと見っめておりますとね、魚が掛かってくると浮きがぴくぴくとこう動くその時のその味わいというものは釣りをする者でないと分からん。それを釣三昧。もう掛かるとか掛からないとかの問題じゃあない。そういう気持を味わう、それはもう暑かろうが寒かろうが、ちゃーんとこうして魚釣をしておる人の気持というのはそういうもの、三昧境と言われる位なその素晴らしい気持が魚釣の人にはあるんだ。
かというてまた、もう魚を釣る事だけが目的の人はここにおっていっ時釣れんと向こうさ行ったり、ここが釣れんと向こさ行ったり、もう釣るという事だけが目的の人がある。信心もやはり信心三昧という言葉がある。ね。三昧境。ただもうその拝む事だけは拝む、ただおかげだけが目的という、そういう心には三昧境は開けてこない。ね。もう一生懸命拝んだばってん、お参りも一生懸命してみたばってんおかげ頂ききらじゃったけんもうやめた。ね。
三昧境を開かんなりにしまえてしもうた。ね。魚が釣れなければ承知しない、勿論、魚が釣れなければいきますまい。けれども場合には魚でなくて、そういう不浄が釣れてくる事がある。女の髪の毛の様なものが上がって来る事がある。草履や下駄んとが上がって来るような場合もある。ね。だからそういう時には、速やかにそれを取り除かして頂いて、新しい餌と取り替えなければならんのである。ね。
私共の心に不浄が湧いて来る時、不浄がなされる時、精進がなされない時、神様との間に一つの絶縁状態というですかね、いわゆる神様との中にその谷間が出来るのです。ね。矢次さんがそうじゃあないけれども、そういう有難い雰囲気の中に神様の御守護を受けておるんだなあと思うような中に宅祭が仕えられて、そして神様のおかげの中にあるんだなあ、特別のお働きを受けておったんだなあと思わして頂けれる様に、お祭りが済んだ跡じまいが済んだ、同時に水道が切れたという様な中にです。
%V私共は日々、そういうお働きの中におかげを頂いておらねばならんのであるから、商売の上にだって人間関係の上にだって、そういうスムーズさというものが出てこなければならんのに、そういうスムーズさが切れると言う事は、神様との間に谷間が出来ておるからなんだ。
%V神様と私共との間に隙間、谷間を作ってはならん。ね。そこんところを私共は精進していく。ですから、どういう事が言えるかというと今申しました、釣三昧とこういうですね、本当に信心三昧の境地。信心というものは、信心というものは有難いんだ。おかげが有難いという、これは枝葉なんだ。ね。
昨夜、村内の方が参って見えて、お参りしてお願いするとおかげを頂く、いっ時ばかり御無礼するとまたお願いせんならん事がある。これでは何時まで経っても信心の有難さというものには触れられない。ただおかげを頂く時だけの有難さ、そして今度はおかげをまたお願いに来てからおかげども頂かんと、やっぱあ、あん時にこげんして良うなったじゃろうという様な事にすらなって来る。おかげをおかげと実感しきらん。ね。
%Vだからそういう信心の中から段々信心を分からしてもろうてです、おかげの有難さではなくて信心の有難さというものが分かって来る時に、信心の三昧境というものが開けてくる。ね。信心三昧の境地というものがね、有難い。その事を通して信心をいよいよ深めさして貰う。そしてそこに、所謂釣れるとか釣れないとか問題じゃあない、こうやってちゃんと釣りをしておるその事自体が楽しいのだ有難いという事になってこなければならん。
%3今はもう殆ど見ませんですけれども、昔は虚無僧という人が、虚無僧というのがあったですね。深編笠を被って、尺八を町なら町、村から村を回られる、修行して回るんですね、そして人の〔家の〕角々に立ってはいくらかのお布施を貰うて、その生活をする訳なんです。〈素敵でしょうが〉。本当に私は、あゝいう一つの宗教でございましょうが、素晴らしい宗教だと思いますね。
%3自分の吹き鳴らす尺八の音色に聞き取り聞き入れながら、尺八の音色を味わわせて頂きながら修行をして回るというのです。ね。人の心を浄め、その家を浄めさして貰う様な尺八の音色には、尺八のあれはお経文を読むんだそうですね尺八、そして次から次と回っておる。ですからそこには修行ですから、例えば貰いがあろうがなかろうが、お布施を頂こうが頂くまいが、そんな事は問題じゃあない。ただ尺八の音色に聞き入りながら回っておるという事自体が有難いのである。
%3ところが中には、所謂本当に貰いが専門というのがある。尺八を吹いて回る、ね、こっちから、「ごめんなさい」と言うていうと腹かく人がおる、腹かく虚無僧がある。それは何かね、何かこう逆尺八かなんかいうですね、「ごめんなさい」というと、虚無僧がもやもやすると反対の方で吹いていく。「ぼー」っいう音を出していく訳ですね。そういう事をするとその家が衰微すると言われる。
%3もう何と根性の悪い虚無僧さんがあったもんだとこう。ね。「ごめんなさい」というたら、その尺八の良い音色じゃなくて、反対の屁を経った様な音を出していく。はあ気持の悪い、ね、これなんかは修行ではなくて貰いが目的ですから、ね、信心でもそうですよ。虚無僧と同じ様な信心をしている人があるんです、そういう悪い虚無僧と同じ様な信心。
はあ金光様金光様というちからまあいうて参って来る、ほんなこつ金光様金光様かと思いよると、自分の思い通りになさんと、はあ金光様にも参ったばってんおかげも頂かじゃったと言うて、今度は金光様の悪口を言う事になる。ね。これなんかはほんな貰いが目的だからなんですよ。ね。だからそういう信心ではいけないという事。ね。ただ信心をさせて頂いた、信心が段々分からして頂くという事が有難い、いうなら信心三昧境というか三昧の境地が開けて来るという事が有難い。ね。
そういう信心にお互いがならして頂かければならん、そういう信心を目指しておりましてもです。ね。私共の、所謂釣三昧、釣りをさせて頂いておるとです、ね。魚ばかりが掛かってくるのじゃあない、髪の毛が掛かって来る様な事もあるけれども、それを速やかに、それを祓わして頂いく精進が次になされなければいけないという事。ね。
%V心に不浄が掛かって来る、ね、身体に不浄がある時にはお水なっと頂けば、それで身体が浄まろうけれども、ね、心の不浄というのは水どん掛かっちゃあ出来るこつじゃあない。ね。改まらして貰う、改まらして頂いて、所謂神様との中に出来ておる谷間というものを無くしていかないと、神様との交流は跡絶えてしまう。ね。
%V矢次さんの例を申しました様に、そういう素晴らしい神様との交流というか素晴らしいタイミングの中に、日々が有難い事であるなあ勿体ない事であるなあという、日々が過ごしていけれるのにどうもタイミングが悪い、何とはなしに神様が空々しい、そういう時には必ず髪の毛が掛かっておる様な時でありますから、ね、それを取り除かせて頂いて、それを改まらせて頂いて、次の精進をさせて貰う所にまた次の神様との交流が始まる。
神様との交流、それが三昧境である。ね。皆さんが大祓なら大祓を一生懸命に奏上さして貰っておる時、もう何にもいらんという心持ちがする時があるでしょうが。一生懸命御祈念さして貰っておる時、もう欲もなければ得もない。神様と私の二人で中にです、交流するもの、なあーんもいらん、思う事もなくなる考える事もなくなる。惜しい欲しいもなくなって来る。そういう気持になるからおかげ頂くのです。そういう意味合いで御祈念は有難い。
御祈念が終わった途端に、また元の木阿弥ではいけませんから、教えというものがそこにある。その教えが本気で行じ抜かれて行く時にです、私共の生活の中に惜しい欲しいの前に、つまらない良くない感情とか根性が出らんですむ、所謂和賀心。自分の心が有難い事である、勿体ない事であるというその気持を持続し持ち続けていく様なおかげを頂かなければならんのだけれど、何かの拍子に髪の毛が上がって来て、自分の心の中にです、その心が有難いという心が失せてしまう。ね。
ですからそこん所をです、私共は繰り返し繰り返し稽古をさせて頂く所の信心にはどうでも、信心の味わいというものを分からなければならん。改まるという事の楽しみ、磨いていく事の有難さというものをです、本気で身に付けていかなければいけない。そして信心の有難さというのはおかげに対しての有難さというものではなくて、ね、信心をさせて頂くという真心。本気で真心にならせて頂くという事の有難さ。そこから生まれて来る、いよいよ神様を信じて疑わんですむ信心、信じる心が強うなって来る。
自分の心が一段一段高められて、わが心が神に向こうていくのを真心というのじゃと仰る様に、自分の心が神心になって行くという事がいよいよ有難うなっていくという真心に精進さして貰えれる。それを目指しとする信心にならなければならないという事でございますね。どうぞ。